| photo・write/成瀬政博 |
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映画「日本国憲法」のDVDをとりよせて観ました。ドキュメンタリーの映画です。監督は、「チョムスキー9.11」 DVDの発売元(株)シグロ TEL 03-5343-3101 FAX 03-5343-3102 |
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| 新聞の書籍広告を見ていて、思わず、おっ!と声がでそうになった。 『虹の彼方からきた子どもたち』 本の題名である。シュタイナーの育児書だ。 「おっ」と思ったのは、四日前の夕刻に見た虹をいまいちど思い出したからである。 虹は山から垂直に伸び、上空で直線のままで消えていた。その幅はとても太くて、かりに全体が見えたとしたら、 巨大な虹を想像させるものだ。それを病院からの帰り途、クルマの中から見たのである。 その病院で2時間ほど前に、赤ちゃんが誕生したのだ。長男夫婦の子供、ぼくらにとっては初孫だ。こんな日に、こ んなふうにとつぜん虹を見るなんて、とてもとても感動的なこと。そしていままた、この本の題名だ。 虹の彼方からきた子どもたち。 そうか。そうだったのか。虹の彼方から子供はやってきたのか。と、新聞の活字を見つめながら、あらためて感動し てしまったというわけである。 シュタイナーのことは、ほとんど知らない。彼がかいた神秘的な絵画や建築を紹介した本を2册ほど持ってはいるが、 独特な宗教観や教育論について書かれたものは読んだことがない。だから、「虹の彼方からきた子どもたち」という フレーズで、ぼくが勝手にロマンチックな気分になっているといえばそれまでのことなんだけれども、神秘主義者シュ タイナーをまつまでもなく、いのちの誕生は、神秘というほかないものだ。 このたびは、分娩室に入れていただき、まだからだや頭髪のあちこちに血が残った赤ちゃんを見せていただいた。 我が子5人の出産時のときは、こんなふうではなかったので、おおっと思わず声が出たものだ。 赤ちゃんをとりかこむわれわれのうしろの衝立てのすぐむこうでは、産婦が術後の処置を受けているのだが、みんな 目はこの世に出現したばかりの新生児に釘づけである。窓からの日射しと天井の蛍光灯の明かりが溶けあったやわら かな光の中で、文字とおりの赤子が、そこだけがなぜか白っぽい手を握り、ときたま驚いたように両の手をいっしょ にふるわせつき出す。亡くなった画家の岡本太郎が、テレビで、「芸術はバクハツだっ!」とやっていたしぐさに似 ているのがおかしいのだが、この世に出てきたおどろきかのようにも思えて、またいとけないのだ。 釈迦もイエスも、みんなみんな、こんなふうにしてこの世に生まれてきたのだ。この輝き、この至福、神秘と言わず に、なんと言えよう。 虹を見た病院からの帰り、立ち寄ったスーパーで順番を待ちながら、レジを打つ娘さんを眺めていたら、「ああ、こ の娘さんも、さっき見た新生児とおなじようにして生まれてきて、いまこうしてここでこんなことをしているのだ」 と、妙に神妙な気持ちになったものだった。 |
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| 台所にある引き出しの一つに、百円ライターばかりを山のようにほうりこんでいた。 とりだすたびに、これらをすべて使い切るのは、どれほど先のことだろう。と思ったものだ。 いまではそれも残りわずかになっている。ライターのほとんどが途中まで使われたものだ。 タバコをカートンで買うと、ライターをひとつ、おまけにつけてくれる。カートンのたばこを十箱消費するのに、 一個のライターは充分すぎて、使い切れなかったライターが貯っていったというわけだ。ところがここ数年、節煙 のつもりで、カートンを買わなくなって一箱ずつ買っている。だからライターは増えてゆくことはなくて、引き出 しの中の古いライターが少しずつなくなっていくという具合だった。 残りを数えるばかりになったライターをとりだし、タバコに火をつけていて、ふとおやじのことを思い出した。 山と積まれていたライターの上のあたりのものは自分がもらってきたものではあったが、底の方のものは、オヤジ が貯めこんでいたものだということに、ふと気づいたのだ。 オヤジとはこの家で、最後の四年余りをいっしょに暮らした。大阪でひとり暮らしをしていたのを、われわれ家族が この地に引っ越したのを機に、呼びよせたのだった。 オヤジにとって、住みなれた大阪を遠く離れて、この田舎でのわれわれとの同居がよかったのか、そうでなかったの か、足腰が弱くなって、一日の大半をテレビの前で過ごしていた。それでも、杖をついてひとりで散歩にでかけるこ ともあって、そんなとき、カートンのタバコが入ったビニール袋をぶらさげて帰ってきたものだ。 オヤジが亡くなって、オヤジがいた部屋は泊まり客の部屋として使われたり、都会に出ていた娘が戻ってきて、いっ とき娘の部屋になったりした。 もう十年過ぎてしまったので、いまではその部屋に、オヤジのおもかげを残すものはなくなっている。 もちろん、記憶の中では、その部屋とオヤジはつながったままで、いまでも、その部屋を指すとき、家族はみんな、 「おじいちゃんの部屋」と呼びつづけているのだが。 いまぼくが、握っているこのライター、たぶん、オヤジも握っていたライターなんだと思う。 考えてみたら、ここ一、二年、引き出しからとりだし、思うこともなく、次々と使っていた使いさしのライターのほ とんどは、オヤジがもらってきたものだったのだろう。 そのことに気がついたいま、なんの変哲もない、使い捨ての百円ライターが、ポイと捨てにくくなってしまった。 |
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| 新年早々、「冬のソナタ」のお話です。 「あれまあー、ブルータス、あんたもかい」と呆れ返られそうですね。 事実、「冬ソナ」無視派の友人からは、一瞬バカにした目で見つめられましたよ。日頃はアート系の映画しか 話題にしないような人物の底の浅さがバレた感じですね。ええ、そうなんですよ、ぼくも底の浅い人間なんで す、軽薄なんです、ミーハーなんです。とまあ、開き直って、がんとして「冬ソナ」現象を無視、批判しつづ ける友人に、まるで新しくできた恋人をのろけるように、チェ・ジウをのろけてるんですから、眠れる恋心を 揺り起こした年末のBSでの再放送、とても新鮮なおどろきでしたね。 世のオバさんたちにおくれて、「冬ソナ」で年を越し、年が明けた2005年のオジさんのお正月です。 あたりまえのことだけれど、恋愛というものは、人と人との関係を組み変える出来事ですよね。 それまで他人であった者同士が他人でなくなり、それは周辺の人間関係をも巻き込むものですから、波風立た ぬ筈はありません。 一方、結婚はこの組み変えられた関係の安定を求めるものですから、波風の恋愛は、まあ抑圧されますよね。 ところがどうも人間という奴は、この波風と平穏、相反する二つを同時に欲しているらしくて、たとえば恋愛 小説家の江國香織さんは、日々の平穏な暮らしを描きつづけている庄野潤三の小説でもあるらしくて、そこん ところが人というものの面白さであり、やっかいなところですな。 さらに言ってしまえば、戦争と平和。だれもが憎んでいるようにも思える戦争が人間の世界からいっこうにな くならないのも、不倫がありつづけるのも、どうやら同じこのやっかいさに根ざしてるみたいですな。 村上春樹の口ぐせじゃないけれど、やれやれ、です。 この、やれやれのわたくしをかかえて、この一年も、平穏と波風、どんなけしきを描くんでしょうかね。 |