photo・write/成瀬政博
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 04’12/22 知は力

時間の流れ方、それを乗り物にたとえたら、幼児のころは三輪車でギコギコ、長屋の路地をぐるぐるまわって
いたときの感じかな。
それが自転車になって、市バスになって、とこのあたりまでは高校生の時間感覚ですね。大学生のころだと、
各駅停車の電車といったところ。
それからそれからたくさんの時間が、ゆあーん、ゆよーんと過ぎてゆきまして、いまのぼくはどんな乗り物に
乗って毎日を暮らしているのでしょう。
そろそろ今年もおしまいです。
正しい日本の人は、ここで一年を反省し、めいわくをかけた方々にお詫びをするところです。だけど、あまり
正しくない日本の人の一人であるぼくは、いいかげんな時間のボーダーラインをまたいで、歳を重ねております。
最近ですね、おそまきながら「華氏911」をビデオで見てですね、あらためて義憤公憤に火がつきましたですね。
で、何をしたかと言いますと、このDVDを購入しまして、未だ見ておられない周りの人々に見てもらおうと思っ
たんです。「『華氏911』、ああ、マイケル・ムーアのね、見なくても私、わかってるわ」と言われる方、た
くさんおられるでしょう。でもね、ぼくもその口の一人だったんですが、見ると見ないとでは、この映画の場合、
ちがいますよ。
「ボウリング・フォーコロンバイン」とセットになったこのDVDが届いた日、そのケースを眺めていて、ふっと
思ったんですよね。
ぼくが生まれたのは、1947年。今は2004年。この先順調であれば20年30年、まだ生きているでしょう。ぼく
の子供たちは、その先を生きていくでしょう。さらに生まれるであろう孫たちは、もっと先の先まで生きるでし
ょう。
戦争はそのときもまだつづき、新しい戦争がさらに起きているのか、先のことはわかりません。ただ言えること
は、戦争をしたがっている人間が今、いるということ。そんな連中にだまされて戦争へ赴き、殺し、殺されると
いう人々がいるということ。怒りと隣り合わせの悲しみがつづいているということです。
ではなぜ、そんな現実がつづいているのかということですよね、問題は。
ここで戦争論をやれば、四方八方から議論が噴出してくるでしょう。
でも、ひとつはっきり言えることは、現在のぼくたちは、中世の時代、戦国の時代に生きているのではないとい
うこと。武力で対立を解決してきた歴史から脱皮しようとしている時代に生きているんだということです。
それなのに、ここんところの構え方がまだまだ人数の総意になりきれていないんですよね。
そして、いちばんの先進国と自認するアメリカが、歴史に逆行する道を進んでいるという、腹立たしくも悲しい
現実だということです。
で、そんなアメリカの武力政治を支持するアメリカ国民が、そしてわが日本を含めた幾多の政府があるという重
たい現実があるということですよね。問題は。
この問題の解き方ってなんでしょう。この時代に生きるみなさんといっしょに考えてゆきたいですね。
哲学者ベーコンは、「知ることは力になる」というようなことを言っています。
この「知を力に」、戦争のない新年をいつの日か迎えて、心からのおめでとうを交わしあいたいものですね。
最後の最後になりました。
みなさん、この一年、ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。

 
 04’7/19 人生を降りる?

いいかげん年をとると、てまえ、ちょっくらこの人生から降りとうござんすと、ときどきかしばしばは別とし
て、たいがいの男女は思うもの。
いいかげんの年をとらなくてもそんなのあたりまえよ、と子供に言われても、まあごもっとも。  
だけど凡人はそう言っても降りれなくてグチやらゴタクをならべてやりくりしてるんだけど、まれにぷいと降
りてしまうやつもいて、「あいつなにを考えとるんや」となる。
最近ぼくのまわりからこんな非凡人が出て、すなわち、凡人だと思っていたのにとつぜん非凡人になって、ぼ
くらの前から姿をけしてしまったやつがいた。
もっともそれらしき前兆はあったのだけれど、親しくしていたわれわれとしたら、いったいぜんたいなんのこ
っちゃ、である。ちょっくら降りてみたい人生だけど、そんなにカンタンに降りてしまって、またのぼってこ
れるんかい、なのである。  
ここで人生といっているのは、まあ、古くさい言葉だけど、しがらみと言いかえた方がいいのかもしれない。
だとすれば、しがらみからぷいと抜け出てしまったあやつにも、そして人生はつづく、であって、どこでどん
な人生をいきとるのか。気にはなるけれど、ここまできたらもう手出しもできやしない。われわれ凡人は非凡
にあこがれ、この凡なる人生をやりくりするほかないのである。  
と、事情を知らない人にとってはなんのことかわからぬことを書いてしまったけれど、この文章、最初は朝の
食事のことを書こうと思っていたんです。それがなんでこんなふうになってしまったのか。  
朝の散歩から戻ってきて、コーヒーをわかして、トーストを焼いて、それにゴマバターをぬったのと、あんこ
をのせたのと、2枚のパンを食べながら朝刊を読むわけですが、新聞の中でいちばん好きなところは本の広告で、
それをひとつひとつていねいに眺めていたら気持ちが整ってきて、ちょっとした意欲も湧いてくるようで、ほ
んの束の間のことなんだけど、人生がひろやかに思えてくるのは、ぼくとしては何故でしょう。  
本好きの人にはぼくのこのときの気持ち、わかってもらえるかもしれません。
毎朝の本の広告を眺めることで、ぼくは束の間、ちょっと人生を降りて、世界を空想した気になってるみたいで、
どうやら一日を生きるうえで欠くことのできないぼくなりのイニシエーションになってるみたい。
だけど世の中の記事を読むうち、そんなひろびろとした一瞬の心持ちは重たくなってくるのもまた毎朝のことな
んだけど。
 
 04’7/11 いまでも不思議です

いま思い出すと、いったいぜんたい、どうしてあんなふうにコトがはこんだんだろう、と不思議に思うこと
って、ひとつやふたつ、この人生にはあるものですね。  
ぼくが30になったばかりのころのことです。
父とふたりで熊本へ出かけたときのことです。  
「いちど九州の熊本を訪ねて、成瀬の親戚がいまもあるのかどうか、たしかめてみたい」  
父はときどき思い直したように言うことがありました。  
どういうことかというと、父は10歳のころ生家である横尾家から成瀬家へ養子にいきました。しかしわずか数
年にして養父は病に倒れ、家が逼塞し、それを恥じた彼はすべての親戚と絶縁してしまったのです。
この養父の故郷は熊本で、彼はひとり大阪へでてきていたのです。
先祖が熊本城の勘定奉行を勤めていたという、そんな気ぐらいの高さがそうさせたのでしょう。
こんなわけで、父は成瀬という苗字を継いだものの、同じ成瀬という名の親戚がひとつもないまま人生を送って
きたのです。このことはぼくたち子供の世代にとってもそうです。  
で、このときの熊本行きは、われわれ成瀬家の親戚さがしの旅だったのです。
だけどさがしだせるアテといったら何もありません。養父が熊本の人だったというだけです。  
まあとりあえず熊本の市役所に行ってみるか、ということぐらいしか思い付きません。
そしてぼくと父は大阪から熊本へと旅立ったのでした。父はそのとき70代の半ばでした。  
市役所の係の人にわれわれの目的を伝えると、分厚い冊子を持ってきて、ぼくたちの目の前に、成瀬という字が
並んだ頁を開いてくれました。手書き文字で名前と住所が並んでいます。その頁全部が成瀬です。
2枚3枚とめくってもまだ成瀬という名前が並んでいます。  
この熊本にはやはり成瀬という名の人たちがいるんだという安堵といっしょに、その数の多さに途方のなさも襲
いかかりました。  
このたくさんの成瀬さんのなかにはたぶん父の養父につながる成瀬さんはおられることでしょう。でもそれがこ
のなかのどれなのか、なんだかあてものくじを前にして、手をこまねくかんじです。
だけどこれはあてものをしているわけではないので、ひとつひとつの成瀬さんにあたるほかありません。  
ところがです。あたったのです。一発で。  
とりあえず、数あるなかからの成瀬さんを選んで電話をかけたのでしたが、こちらの話を伝えると、「ああ、そ
ういえばそんな話を聞いたことございました。養父の方にとって甥にあたる方が福岡の大川市におられます。わ
たしはその人のまた甥になります。」  
というような返 事がかえってきたのです。
あてずっぽうにかけた最初の電話でいきなりこんなふうに話がつながったのですからびっくりです。
当りくじをいきなりあてたおどろきとよろこびです。
現実の壁にぶちあたってその困難をのり越えるなかでわれわれはいわゆるリアルというものを覚えるわけですが、
それがまるでなかったものですから、今このときのことを思い出しても、なんだか夢の中のできごとのように思え
るのです。
たぶんこんなことって、人生でそうあることではないでしょう。  
翌日、電話の成瀬さんの案内でぼくたちは大川市に向かいました。  
お家は町なかの長家の一軒家でした。おばあさんが出てこられ、ご主人であるその方は近くの健康ランドへ行かれ
たとのこと。
この健康ランドのあるあたりは、北原白秋が生まれた柳川で、路地には小川が流れて、船が浮かんでいた景色を、
今も思い出します。父の養父にとっての甥ということは、その方と父とはいとこの間柄になります。
90前後の方でした。
父がそしてぼくが、成瀬という親族とはじめて接したときのことでした。
 
 04’7/3 町のお風呂屋さん

次女が大阪に住んでいます。旭区の千林というところで、下町です。アパートから歩いて数分のところに
商店街があって、そのなかにお風呂屋さんがあります。娘の部屋に泊めてもらった晩はいつもこのお風呂
屋さんに出かけます。
浴槽がなんと10こほどもあって、なんだかフルコースの料理を前にしたみたいで、ぜんぶ味わいたい、入
ってみたい気になって、ここへきたら子供にかえったみたいな気持ちになります。 
いま暮らしている安曇野にもたくさんの温泉があって、日頃楽しませていただいているのですが、こんな町
のお風呂屋さんにはまたちがった味わいがあります。 
お風呂からあがってくると、ジュースやビールなどの飲み物だけでなく、ちいさな居酒屋さんみたいなカウ
ンターが休息所の隅にあって、おばさんが、うどんやたこ焼きなど、ちょっとした食べ物まで用意している
んです。そんなのを見るだけでも気持ちがさらにリラックスしてきます。
テレビを見ながら、汗がおさまるまで、ほかのお客さんといっしょにぼんやりしていると、こんなおっちゃ
んやおばちゃんたちとむかし同じ学校へ通っていたような、そんな親密感さえわいてきます。
町のお風呂屋さんならではのふしぎな味わいです。 

子供のころ、この千林の町とはちがうけれど、やはり大阪の下町の家風呂のない暮しをしていたので、風呂屋
さん通いはふだんのことでした。
で、いま思い出すのは、中学生のころ、学校から帰ってくると、服を着替えてすぐお風呂屋さんに行くのが習
慣になっていた時期がありました。時刻は夕方の4時前後のことですから、春や夏のその時間、浴場の窓からは
明るい光りが射込んでいて、状況は全然ちがうけれど、ボナ−ルの有名な浴室の絵の明るさで、だけど、ボナ−
ルの絵では美しい女の人が浴槽で裸体を浮かばせているのですが、ここ下町のお風呂屋さんの湯舟には背中にお
灸のあとをつけたおじいさんが浸っているわけで、そんな湯舟の縁にお尻をのせて、中学生のぼくはぼんやりし
ているのです。
ぼんやりぼくは何を考えていたのでしょう。クラスの好きな女の子のことでも思っていたんでしょうね。 
中学生じゃなくて、もっとちいさかったころは父といっしょにお風呂屋さんに行っていたものです。
父は自分の体を洗うと、こんどはぼくの体をごしごし、しぼったタオルでこすってくれるのです。
すると毎回のことなのにからだじゅうからアカがいっぱい出てきて、どこにこんなにもアカが自分の体にくっつい
ていたのかとふしぎで、ひととおりアカを出し終わって、湯をかけてもらうと、なんだか体がつるつるして、体重も
すこし軽くなったみたいで、そのころの父より年とったぼくですが、なつかしくそんなけしきが思い出されます。
父とは亡くなる前の数年、この安曇野の村で一緒に過ごしたのですが、温泉好きの父を毎朝のように近くの温泉場に
つれていくのがぼくの役目でした。
いっしょに入ると、父はとっても長風呂なので、朝からそんな長風呂につき会うと、ぼくとしてはその一日、仕事に
ならないので、クルマで温泉場まで送り迎えをしたものです。 
ところで父を最後にお風呂に入れてあげたのは、亡くなるほんの数日前の事でした。
ある夜(阪神大震災の二日ほどあとの真夜中のことです)、トイレに行こうとして廊下で倒れた父はそのまま自分で
体を動かせなくなりました。
数日後、そんな父をぼくは介護してやっとこさ家のお風呂に入れてあげたのですが、なんと父はその湯舟の中で、大
量のウンコをしたのです。
おどろいた、あわてた、と言ったらほかにたとえようもありません。このハプニングにあわを食らったわけだけど、
父としても情けなかったろうと思います。 
父が亡くなったのはそのまた数日後のことでした。
91の誕生日を1月たらず残しての2月の夜でした。 
町のお風呂屋さんのはなしが父の最後のお風呂までつながって書いてしまいました。

 
 04’6/2 この仕事

ひさしぶりに4泊5日、東京へ出かけて戻ってきたところ。
1日目の夜、編集者、アート・ディレクターと7月、8月の表紙絵のラフ・スケッチを検討。
基本的にすべて OK。こんなことめったになくて、いやいや、はじめてで、ホッとしましたよ。
毎回ここのところがナンカンなんです。
ここで「週刊新潮」表紙絵8年目の経緯をふりかえってみますれば、最初の1年はまあ、もちごまでというか、
けっこう苦労なくこなせたんですが、その後、しだいに何をかいたらいいものかと、じわじわと悩みの季節に
入ったのであります。それがなんだかとても長かった。
たまには自信作も出るんだけど、いまふりかえって、そのあたりの絵をみるのがつらいくらい。よくもまあ、
首がつながっていたものだと思うくらい。
いま思うに、そのころのぼくは「週刊新潮」の表紙絵に求められるのがどんなものかということを、充分わかっ
ていなかったようです。というか、頭のさきっちょでは理解していても、絵は自由で、好きなように描けばいい
んだ、というしごく当然の思いと、編集部の要望とがたえず対抗していて、できあがった絵がどこか中途半端な
気がしていたものです。
編集部が求めていることは、要約すれば、次のようなことになります。
■暗い絵はダメ。明るく。 
■シュールにならないように。シュールをファンタジーに。(ぼくはシュール・レアリズムの絵が好きなんですが)
■季節感を出してほしい。
■色目は毎週ごとに変えること。 
■題字がよく抜けるように。 
■キャラクターはかわいく。
まあこんなところでしょうか。
これってけっこう大変なんですよ。
自身の内的思い、感性にしたがって、制約のない絵を勝手に描いてきた絵描きにとっては。
何度も、「この仕事、望んでひきうけた仕事なのに、自分には向いていない」と悩んで、もうアカンわと思った
ことでした。 
2年ほど前にね、編集部からかなりきついこと言われたんですよ。そのときはね、くそっ!と思って、ぼく、中
学校以来はじめて、頭を丸刈りにしたんです。
頭の中を変えなこの仕事つづけられないのに、どう変えたらいいかわからず、とりあえず頭の外、つまり髪をか
えちゃえ、ってわけです。
出家するとき頭を剃るってことの効果、少しわかりましたね。
なんだかしばらくは気持ちが変わったな、というかんじでしたよ。
それ以降、製作の手順もかえました。編集者、アート・ディレクターにラフ・スケッチを提出してディスカッシ
ョンするようになったのです。このやりかたをつづけるなかで、表紙絵に向かう姿勢、考え方も少しずつぼくの
なかで変化していき、それがからだにも浸透していった気がしています。
編集者とアート・ディレクターの寺嶋氏と三谷氏にはとても感謝です。
才能のある、頭のいい作家さんだったらこんなふうなこともなく、こなせる仕事なのかもしれませんが、ぼくに
とってはとてもリアリテイのある、ここ1、2年でした。
でもね、ここにきてひとつ、表紙絵に対してのぼくの姿勢をあと押ししてくれた出来事がはからずもあったんで
す。
この春、原画を展示したミュージアム・カフェ「BANANA MOON」をオープンしたでしょ。それなんです。
額に入った一枚の絵として表紙絵が自立した作品になっているかどうか、少なからず不安とためらいがあって、
チョイスされた絵を展示しているんですが、この美術館を訪れる方々のなかにも「週刊新潮」の読者もたくさん
おられて、「表紙をファイルしていますよ」とか「表紙の絵が好きで毎週買っているんですよ」とか。
そんなぼくには予想もしていなかった、ぼくの絵のファンがけっこういるんだ、ということにとても自信と元気
をいただいたということです。
家からさほど離れていないところに美術館があるので、時間ができたらちょくちょくぼくは顔を出すんですが、
こんなファンの方々とのふれあいで、ぼくはいま力をいただいています。
こうなりゃ野球選手じゃないけれど、毎号の絵が2塁打、3塁打、ときにはホームラン級の絵をかかなきゃ、とい
うあらたな目標をいただいたかんじ。・・・と、まあ、最近のぼくの思いを書いてきたわけですが、絵のアイデ
アには毎回苦しんでいることにはちっとも変わりません。
水気のない雑巾をしぼって、なんとか水を、イメージを出すわけだから、大変。
ともあれ、どんな仕事にも苦労はあるもの。ぐちの多いぼくですが、ぐちを言いながらも、満足できる絵をかきつ
づけたいものです。